Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
昭和2年生まれだった父親が、戦後久里浜に住み都心の大学へ通っていた頃の話を聞いたことがあります。横須賀線を利用していたそうで、東海道線やその他の路線に比べたらマシだったものの混雑や遅延が酷く通学は大変で、両親を空襲で失った後で年長の兄は家を出ていたので家計を支えなくてはならず、結局月に1~2回帰宅するがそれ以外は大学近くでアルバイトをしたり、知人の伝手で米軍からの横流し物資をヤミ屋へ渡して金を稼ぐ生活をしていたそうです。祖父が海軍付きの法務官だった関係で戦前・戦時中は2等車が当たり前だったのに、戦後3等車に乗るようになって自分がいかに恵まれていたのかを何より一番理解したと、普段鉄道趣味の話をしない父が言っていたことを今でも強く記憶しています
海軍、特に上官クラスの方々は2等車が良く使われていました。昭和19年に一時期横須賀線の電車から2等車が取り外されたものの、数ヵ月で海軍からの要望で復活したとのことです。戦後すぐは連合軍専用車として使われたもののその後解除、さらには70系の増備も行われました。高度成長期以前の朝の上り電車の2等車は逗子駅や鎌倉駅では座席の位置が暗黙の了解で決まっていたとのこと。大企業の重役の方々だけでなく、鎌倉に住まわれる方の子息が東京の学校に通うためにお手伝いの方と一緒に2等車という光景もあったそうです。
お父様は今でいう県立の横須賀高校出身だったのでしょうか?我が国に二つしか例のないノーベル賞受賞者、首相、五輪の金メダル受賞者を全て輩出した高校です(他には日比谷高校があります)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。貴重なお話をしていただき、大変勉強になると同時に、資料だけでは知ることのできない、当時の生活の様子を知ることができました。数字の羅列の中に、誰かのために必死に生活を続けようと奮闘した人々の表情が浮かんできます。
@@TSUYOS185 様当時の海軍関係者と同様、父の一家は元は渋谷区の神泉あたりに住んでおり、父は都内の学校に通っていたそうです。ただ、連合艦隊の司令部が横浜・日吉台へ移ったのを契機に祖父が家族を所有していた久里浜の家に疎開させ、自分だけ日吉台へ通いやすい渋谷に残ったとのこと。山手大空襲以降うやむやで卒業し、更に大学進学も決めていたので無事神学は果たせたそうで、残念ながら横須賀高校OBではありません
@@こちたんぱぱ さま苦難の歴史を乗り越えられたお父様には感謝の限りかと思います。その頃の久里浜は今と比べてのんびりしたところだったと想像しますが、近くの横須賀軍港ではあれこれと戦略について議論が交わされたことと思います。21世紀になる頃まで今のベースからさほど遠くないところに海軍の将校の方々が集まっていた料亭がありました。
ここから約20年後に新幹線ができるなんてだれも予想できやしなかったもんなぁー
逆に50年掛けても整備新幹線すら完成の目処が立たない現代国力の衰えを感じる
@@erimochu強制的に生活の基盤である住まいを立ち退かされなくなったり、地方自治体の意見を汲み取っているという話なだけじゃないですかねご自身の不満等全部ひっくるめて国力の衰えってしちゃえば楽ではあるんですが、もう少し頭使ってみませんか?
@@erimochuその代わりにヤーさんとかを国が雇って追い出される羽目になるがなw
わしは予想してたがね。弾丸列車計画とかあったからね。
用地確保はしてたみたいです。もし戦争がなくて東京オリンピックが開かれていたら電気機関車が牽引する形で走ってたのかもしれませんね。。
いつもありがとうございます。これは興味がある時期の時刻表です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。興味のある時代でお楽しみいただけて大変嬉しいです。これからも色々な時代の列車をお届けできるよう頑張ります。
いつもありがとうございます。横須賀線は当時と比較して武蔵小杉経由とルートは変わり、東戸塚などの停車駅が増えたとはいえ、終戦直後の物資不足のなか東京~横須賀が70分程度で走っていたのは凄すぎ。おそらく米海軍のために迅速な整備をした結果かと思います。今は概ね80分かかり、回り道なので大半が京急利用です。横須賀中央や汐入からなら横浜まで30分足らず、品川まで1時間を切りますし(ラッシュ時は特急でも1時間10分かかりますが)20時ちょうど発の門司行きの急行ですが、時刻表では到着は翌日の21時15分となっていますが、概要欄には広島駅が20時55分となっていました。戦後すぐではあれ岡山~広島が8時間はかからなかったのではないかと思います。その欄では門司ではなく下関着が21時15分となっていました。
大阪まで14時間の普通列車!凄い!博多行き急行27時間も凄い!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。結果としては運転休止区間があるというものですが、そのような行き先の列車が設定されていたことは驚きですね。
横須賀在住だった叔父が46年4月から、三鷹の某医学部まで片道3時間かけて通学していました。そんなに時間かかるのかなと長年疑問でしたが、本動画で納得できました。ありがとうございます。
戦後日本の成長を支えた一つに鉄道輸送があると思います沢山の空襲を受けてでもよく復旧させたと感心します少ない車両をやりくりして運行した事に感銘を受けました鉄道関係者に脱帽です
いつもご視聴とコメントありがとうございます。被災した車両や鉄道設備、そして電力不足や石炭不足の中、鉄道が運行されていたことはもちろんですが、時刻表も発行されていたことにも驚きました。
どれもこれもドラマを感じます。BGMもいいですね。 ぶしつけですが幾つかご参考に①新幹線開通直前の横浜駅 横須賀線、東海道線の上下線②房総東、西線電化前の海水浴夏季輸送の千葉駅(総武・成田線含む)③昭和40年代、品川駅始発の東北方面帰省列車また、大変ですが臨時も加えたら楽しみ方も倍増するのではないでしょうか?
実際には大幅な遅延や運休も珍しくなかったでしょうが、国鉄が唯一の日本人の足として懸命に走ろうとする姿勢が、この時刻表から伺えます。
特に東海道線や山陽線は全国でも有数の人口密集地帯を走っていただけではなく、復員兵、引揚者、疎開から戻る方々など多くの方々、さらには物資を運ぶ大動脈だったのでいち早く復旧に取りかかった姿が伺えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。遅れながらでも、運休しながらでも、寄せ集めの車両でなんとか運転していた姿に勇気づけられた人もいたでしょうね。
このシリーズでは運賃は一切触れていないが、この時代狂乱物価の時代で、S20/08では13km40銭が22/02では1円、22/10では4円50銭、S24/09ではなんと20円まで値上げしてる。
戦後まもなくでまだありとあらゆるものが不足していた時代にもかかわらず、列車の本数の多さにまず驚きました。一歩でも二歩でも復興を進めたい気持ちの強さが感じられるダイヤだと思います。普通列車なら大阪までが約14時間、門司までだと約30時間。戦後でそれどころではなかったかもしれませんが、食堂車や寝台車抜きでこの長距離移動は大変だったでしょうね。
23:00が最終・・・終戦直後の痛ましい様子が時刻表からでもよく伝わってきます。
@@HAJIMENINOMAE-pt2ys さま電力事情が厳しい時代を物語っていますね。人手が足りないなか線路の補修や信号の点検を夜間に行う必要がありましたね(現代でもそれは変わりませんが)
こんな時代背景の中1時間に2本のパターンダイヤ(末端区間では今と同水準)だった横須賀線の先進性が光る時刻表でした。
横須賀に米軍の海兵隊が常駐し太平洋の戦略の拠点と定められたことが一番の理由ですが、鎌倉や逗子あたりから都心への通勤客も少なからず存在したことも影響しています。
まあスカ線は戦前から電車運転だったし、後に中距離電車ながら国電指定されたくらいなので今もトカは列番がS(=列車)だけどスカはM(=電車)
@@HMikimoto さま横須賀線は列車番号の後ろはS、東海道線はMが長く続きましたね。今は湘南新宿ラインはY、高崎線や宇都宮線から直通するのはEになり、Mをつける列車は本当に少なくなりました。
東京駅の丸の内口の駅舎は前年の空襲でドームと3階が焼失。まだ修復もされず焼失部分がそのままだった時のことですね。
@channelsada3849 木っ端微塵だと爆弾になります。5月25日の空襲で焼夷弾が着弾して焼失です。
ロマン鉄道と呼べる時代に感謝です。 貴重なデータをありがとうございます。終戦直後の進駐軍統制下の混乱期。戦後生まれですが色々な情景が脳裏に浮かびます。食料買い出し、疎開先からの移動、外地からの復員など国民は大変だった時期です。 軍港横須賀を念頭においた進駐軍による進駐軍の為の(観光も含め)列車ダイヤですね。白帯を車両にまとった上級な進駐軍専用車両、専用列車がありました。敗戦国日本の約80年前の事ですね。この年の11月に日本国憲法が公布されました。 2月の鉄道の思い出は在来線のスキー列車、観梅などの臨時ダイヤが旺盛に組まれた時代がありました。そんな対照的な思考も浮かびます。 二度とこの様な状況に導かれない様に特に今、政治を注意深く監視する必要を感じます。
終戦直後に一泊2日だった東京―博多間、30年後に7時間を切るとは当時の人々は誰も想像しなかったでしょう...
複数の区間需要を一つの列車で満たすために、通し運転しているだけなので、その「7時間」や現在の「5時間」等にあまり意味はないですけどね。4時間を超えると航空機のシェアが圧倒的ですから。
20時発の急行門司行きの広島着以降の時刻がおかしいような気がしますが……。
昭和21年2号の時刻表を見ると広島15:21/15:30 宮島口15:55 岩国16:23/16:27 柳井17:18 光17:46 徳山17:56/18;08 三田尻18:41 小郡19:05/19:15 西宇部19:49 厚狭20:05 下関20:55/21:05 門司21:15に読めます。
@channelsada3849 ど=せ客車列車です。機関車付け替えれば良いんです。 当時だって石炭や運転士の勤務時間から機関車付け替え等はしてたはずですし。
久しぶりです前日私は東北に行きました山形、仙台、福島に行きました東日本大震災で流された旧常磐線の跡を巡りましたリクエスト何ですけど1925年【大正14年】の常磐線、上野駅のダイヤを話してください1925年のダイヤの本見てると急行青森行きがあります
終戦後から半年後ですね!GHQ専用列車が登場するかしないかの時期ですね。後横須賀線の普通横須賀線って表示がありますがこれは行先が不明ってことなんですかね?。
@channelsada3849さま午前中は全て掲載されているのに午後は行き先が記載されていないのも不思議ですね。ごく自然に考えると横須賀行きか久里浜行きでしょうが、国電区間と同等の輸送体系だったので東京駅の始発時刻だけが記載されていたのかもしれませんね。詳細は現地の駅で確認するしかなかったのでしょう。
@channelsada3849さま戦前から東海道線と横須賀線の時刻表は別立てになっていました。行き先が書かれていなかったのはあくまで「横須賀方面」と言うことで書いたのかもしれませんね。首都圏の全電車が各駅ごとに記載される時刻表が出来たのは平成になってからです。その時刻表には山手線の全電車の時刻まで記載されており驚いたものです。今は交通新聞社が出しております。ネットもない時代、遠方から省線、後の国電の各駅の時間を調べるには現地の駅に直接電話するか出たとこ勝負で行くしかなかったものと思います。
当時はほぼすべてが客車での運転。しかもSL。戦争で被災した車両を補修し、かき集めての運転ですよね。石炭も性能が劣る質の悪いやつだったと聞いたことがありま
@@那須仁-r6gさまこの時代は東海道線は電機牽引の客車、横須賀線は電車が基本でしたね。ただ、電車は電動機の酷使や戦災でやられたものも多く、電車を電機で牽引することも行われました。電気も供給不足で厳しかったものとは思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。普通横須賀線表示ですが、資料となる時刻表には朝と夕方から夜間にかけての時間しか掲載されておらず、日中は東京駅発の時刻のみ記載されている状況でした。ただ、そのような状況でも、戦前の時刻表には行き先については何らかの記載や説明がされていたのですが、この時代の時刻表には記載がありませんでした。もしかすると、戦後の混乱期の影響なのかもしれませんね。
18きっぷで何度も東海道線を走ってきた身としては、大阪まで走り切るロングラン普通列車にロマンを感じざるを得ない!!!!!!
終戦の日も走り続けた鉄道ってやっぱすごいな、、、リクエストなんですけど、同時期の上野(北方面)ってできますか?
5時6時7時15時(島田止)と25分発が大阪行きになってて分かりわすい感じですが資材難、多客で定刻運行が大変だったと思います💦
行先不明の横須賀線列車はおそらく進駐軍関係でしょうね。
東海道線と横須賀線の時刻表は戦前から別立てで書かれていたものと思います。横須賀線は午前中と夜間は全停車駅を記載したものの、昼間は始発駅の時刻を記載しただけだったのかもしれません。行き先が書かれていなかったのはあくまで「横須賀方面」としただけかと思います(今ならミスプリでクレームの対象になりそうですが)連合軍との関係とは異なるものかもしれません。
きれいなパターンダイヤとなっているうえに列車番号の振り方も電車ダイヤのそれなので、現在の旧国電(例えば山手線や京阪神地区の東海道と山陽の緩行線)の「初電と終電以外は省略して表記」と一緒のようなものだったのでは?
時刻表のスペースを省略したいためにフル表記をしないだけで進駐軍とは全く無関係です昼間の時間帯について省電路線では戦前から時刻表上で途中駅発着時間と列車番号省略はデフォパターン化してるので時間は推定可能、列車番号も基本頭の3・4桁目はその時間帯、2ケタが上り下りで1セット(01と00、03と02など)1501なら15時台の01-00運用とわかる
いつもご視聴とコメントありがとうございます。大変深いご推察ありがとうございます。しかしながら、TSUYOS185様やsueipas様の仰る通りで、単に掲載をしていなかっただけのことでした。
横須賀線行きと書かれてる列車が進駐軍関係ってことは、一般の乗客が利用できたんでしょうか。ここに載ってるならだいじょうぶか。
終戦直後からサンフランシスコ平和条約の締結までは横須賀線用の2等車が接収され、連合軍専用車両として運転されていたこともありました。それには一般の旅客用の3等車が連結されていたものと思います。
長距離列車がめちゃめちゃ多い...
「日本の鉄道は俺の鉄道だ!!」と言い放ったCTS(民事運輸局)のシャグノン中佐。本国ではイリノイ・セントラル鉄道の主任レベルの人が日本国内の鉄道の絶対的権限を持っていた。無茶苦茶な人で、最後は職権濫用で解任。日本側から誰も見送られる事なく寂しく離日したそう。
米軍も人材が必ずしも豊富では無かったんすかね、この時代ならまだまだ鉄道強いはずだが
@@tyouicbmさん この方の主な実績大:下山事件(何らかしらで関わっている事は明白)中:特別二等車(国鉄では一等車で設計していたが、定員44名の一等車なんてあるか!!二等にしろ!!と厳命)小:つばめガール(候補者の採用試験に参加したり制服デザインに色々と注文をつけたりとご執心だった)
2240発の大阪行き普通149列車は、後の大垣夜行〜ながらの前身でしょうか?
おそらくそのはずです。その後の時刻表を見てみると、東海道新幹線開業直前の1964年9月では東京23:30→大阪10:47の客レ普通145列車、ゴーサントオで有名な1978年10月では東京23:28→大垣6:59の普通347M列車、そして民営化して間もない1988年3月では東京23:25→大垣6:57の普通375M列車と移り変わっていっています。
ヨンサントオの改正で大垣止まりに短縮されて、大垣夜行になりました。
GHQ…。マッカーサーですね。支配下となると、中々発展していかないイメージもありますが、そういう歴史があったからこそ、今の日本の鉄道があるんでしょうね。
GHQを評価するようなコメントはお控えください。戦勝国が敗戦国の憲法を創る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。
急行の本数の多さに意地を感じる
それでも国内では石炭不足が深刻になり、1947年の初頭には戦時中すら動いていた急行が全て廃止されました。いっときではあれ極限状態に陥りました。
横須賀線と東海道本線列車が一緒で運転時代 横須賀方面の列車多そう。
普通 門司すごいですね。。
今回は終戦間もない状況ですが、戦前含めて長距離の移動の際に優等列車がとても少なく普通列車が多いのは何故なんでしょうか?今の時代に生きているから違和感を感じるのは少し理解できますが、都市間の小さな駅にも停まっていたのかと思うと、特急はともかく快速列車等も無かったのか不思議です。長くなってしまいましたが、解説して下さる方がいましたらよろしくお願い致します。動画の趣旨とずれてしまって申し訳ありません。
戦時中は特急や急行は軍関係やビジネスの方が優先されていたのでしょう。一般の庶民は普通列車で長時間というのが当たり前でした。さらには普通列車には荷物車や郵便車も連結。都心から地方に新聞を運ぶこと、小包や赤紙の召集令状を運ぶことにも鉄道が使われていました。さらには貨物列車も今とは比較にならないほど多数運転。東海道線や山陽線クラスともなると限られた線路容量のなかでギリギリの運転をされていたことと思います。
当時は戦前より面々と続いてきた身分格差が今より厳格だった時代です。また、料金の問題もあり、一般人は普通列車移動が「ごく当たり前」だった時代です。なお、大都市間は今のように京浜線(この当時は京浜東北線ではない)・東海道緩行線とかはありました。今のように快速(無料)はほぼありません。ただし、夜行普通列車によっては夜間帯に小駅を通過する列車は全国各地に存在していました。例えば大阪行149列車(東京22:40)は24:00着の平塚を超えると小田原、沼津、静岡のみに停車し、4:02着の掛川からは各駅に停車していました。もっと通過していた鳥羽行241列車は小田原を超えると熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、岡崎しか停車せず、5:07着の大府まで262.6kmを快速運転しここから各駅に停車していました。このため先行の大阪行急行103列車と東京名古屋では15分しか所要時間に差がありませんでした。
山陽線区間はモット顕著で糸崎~西宇部間は深夜帯は今で言う快速運転を普通列車もしており、快速運転が長い列車(京都発下関行227列車)だと河内23:41=西宇部5:38間207.7Kmを主要駅のみ停車で結んでいました。東北本線上野行104列車なんて郡山23:35~上野5:00間221.6km、常磐線仙台行205列車は松戸22:17~原ノ町4:19間271.2kmが快速運転です。今で言う「乗り特列車」は全国各地に存在していました。
道路事情も全然違います。舗装されている道はごく僅か。自動車で長距離は出来ません。長距離移動は鉄道しか手段が無かったのです。おまけに運賃は等級ごとに加算されていくので一般の人が乗れるのは三等だけです。二等に乗るなら二等料金と二等運賃を払わないといけないので。今とは全然違います。速達性のある急行は急行料金も払わないといけないので今みたいに気軽に優等列車に乗れる時代ではありません。目的地まで一日以上かかろうが移動手段は鉄道でなおかつ普通列車しかない時代です。またこの時代は外地からの引き揚げ、戦地からの復員もあったので専用の普通列車もありました。
@@radiotanpa 二等に乗るなら二等料金と二等運賃を払わないといけないので。今とは全然違います。間違い。 2等車に乗るのは2等運賃(大体三等の3倍)だけでよい。 急行料金等も1~3等で料金が分かれているが、これは急行や特急に乗らなければかからない。 当時の東海道本線等は普通列車でも2等車が連結されている例がとても多い
午後便の御殿場行きや山北行きは、JR化後10年くらい前までは走っていたので、歴史が長いなと思いました。
門司行きが珍しい 米行きも 普通・博多行き 御殿場線の御殿場行き 御殿場経由沼津行き 山北行き 横須賀線で行き先表示がない逗子行きかな? 鳥羽行き
沼津までの3時間前後はまぁまぁそんなものかな、という感じですが、門司までの30時間超え、大阪まで12時間ってのは西の方の復旧が遅れてるってことですかねそれでも走ってるだけまし、と車内に潜り込んでいったのでしょう、なにやら胸が熱くなりますなぁ
石炭不足のために速度調整をしていたと思うんですが。まあ線路も車両も「部品供給困難」の為の整備不足のため最高速度も出せなかったと思いますが。
所要時間の比、いまと当時で大して変わらないですよ。いま、普通列車で東京から沼津まで約2時間なので、要するに約1.5倍です。1.5で割ると大阪まで8時間、門司まで20時間普通列車ならば大体そんなところでしょ、いまでも。
なるほど、1.5倍の法則ですか~そう考えると納得です
横須賀線。現在より所要時間が短い。品鶴線を通らない。逗子で付属編成の切り離しが無い為か。
戦後のダイヤを目にするのは初めてです。鳥羽行の列車があるとは、驚いた。
この時代の時刻表はJTBが2回ほど復刻版を出しましたから比較的目にする機会は多いです
鳥羽行列車があったのは、当時の近鉄名古屋線(旧伊勢電鐵→旧関西急行電鐵)が、狭軌(1067mm)だった為に伊勢方面への直通が出来ず(1959年伊勢湾台風復旧と並行して1435mmに改軌)名古屋から関西線→参宮線というルートがメインだったそうです。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 さま戦時中は物見遊山の旅行はきびしかったものの、お伊勢参りは戦争が激しさを増すまで奨励されていました。この列車が残ったのもお伊勢参りをされる方が多かったと言うことでしょう。後に急行になりますが、新幹線が出来てからは新幹線+近鉄特急がメインになりましたね。
@@TSUYOS185 様へ。お返事を頂きまして、有難う御座います。所謂、戦勝祈願でしょうか?
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎さん戦前の修学旅行には、伊勢神宮~橿原神宮~桃山御陵というルートがあった様です。
同じ時間に同じ列車が複数走っている
戦時中より本数増えてる。
門司まで1日かかる
23:00で終電?
東海道?山手や京浜東北込み?
東海道線と横須賀線のみと思います。当時は横須賀線の電車も東京大船間は東海道線と同じ線路を走っていました。
リクエストを送ります92年の特急「ハイパーかもめ4号」と新幹線「ひかり8号」の時刻をアップして下さい
屈辱的な敗戦から半年・・・。近郊の横須賀&久里浜までもともかく、遠路大阪&急行で博多までダイヤを組んだ当時の鉄道省職員一同に、感服の天晴だ\(^o^)/貴殿らの奮闘があったから、帝国の戦後は無難に引き継がれた
無難どころか、その「帝国」は滅んだぞ
昭和2年生まれだった父親が、戦後久里浜に住み都心の大学へ通っていた頃の話を聞いたことがあります。横須賀線を利用していたそうで、東海道線やその他の路線に比べたらマシだったものの混雑や遅延が酷く通学は大変で、両親を空襲で失った後で年長の兄は家を出ていたので家計を支えなくてはならず、結局月に1~2回帰宅するがそれ以外は大学近くでアルバイトをしたり、知人の伝手で米軍からの横流し物資をヤミ屋へ渡して金を稼ぐ生活をしていたそうです。祖父が海軍付きの法務官だった関係で戦前・戦時中は2等車が当たり前だったのに、戦後3等車に乗るようになって自分がいかに恵まれていたのかを何より一番理解したと、普段鉄道趣味の話をしない父が言っていたことを今でも強く記憶しています
海軍、特に上官クラスの方々は2等車が良く使われていました。
昭和19年に一時期横須賀線の電車から2等車が取り外されたものの、数ヵ月で海軍からの要望で復活したとのことです。
戦後すぐは連合軍専用車として使われたもののその後解除、さらには70系の増備も行われました。
高度成長期以前の朝の上り電車の2等車は逗子駅や鎌倉駅では座席の位置が暗黙の了解で決まっていたとのこと。大企業の重役の方々だけでなく、鎌倉に住まわれる方の子息が東京の学校に通うためにお手伝いの方と一緒に2等車という光景もあったそうです。
お父様は今でいう県立の横須賀高校出身だったのでしょうか?
我が国に二つしか例のないノーベル賞受賞者、首相、五輪の金メダル受賞者を全て輩出した高校です(他には日比谷高校があります)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
貴重なお話をしていただき、大変勉強になると同時に、資料だけでは知ることのできない、当時の生活の様子を知ることができました。
数字の羅列の中に、誰かのために必死に生活を続けようと奮闘した人々の表情が浮かんできます。
@@TSUYOS185 様
当時の海軍関係者と同様、父の一家は元は渋谷区の神泉あたりに住んでおり、父は都内の学校に通っていたそうです。ただ、連合艦隊の司令部が横浜・日吉台へ移ったのを契機に祖父が家族を所有していた久里浜の家に疎開させ、自分だけ日吉台へ通いやすい渋谷に残ったとのこと。山手大空襲以降うやむやで卒業し、更に大学進学も決めていたので無事神学は果たせたそうで、残念ながら横須賀高校OBではありません
@@こちたんぱぱ さま
苦難の歴史を乗り越えられたお父様には感謝の限りかと思います。
その頃の久里浜は今と比べてのんびりしたところだったと想像しますが、近くの横須賀軍港ではあれこれと戦略について議論が交わされたことと思います。
21世紀になる頃まで今のベースからさほど遠くないところに海軍の将校の方々が集まっていた料亭がありました。
ここから約20年後に新幹線ができるなんてだれも予想できやしなかったもんなぁー
逆に50年掛けても整備新幹線すら完成の目処が立たない現代
国力の衰えを感じる
@@erimochu
強制的に生活の基盤である住まいを立ち退かされなくなったり、地方自治体の意見を汲み取っているという話なだけじゃないですかね
ご自身の不満等全部ひっくるめて国力の衰えってしちゃえば楽ではあるんですが、もう少し頭使ってみませんか?
@@erimochuその代わりにヤーさんとかを国が雇って追い出される羽目になるがなw
わしは予想してたがね。弾丸列車計画とかあったからね。
用地確保はしてたみたいです。もし戦争がなくて東京オリンピックが開かれていたら電気機関車が牽引する形で走ってたのかもしれませんね。。
いつもありがとうございます。これは興味がある時期の時刻表です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
興味のある時代でお楽しみいただけて大変嬉しいです。
これからも色々な時代の列車をお届けできるよう頑張ります。
いつもありがとうございます。
横須賀線は当時と比較して武蔵小杉経由とルートは変わり、東戸塚などの停車駅が増えたとはいえ、終戦直後の物資不足のなか東京~横須賀が70分程度で走っていたのは凄すぎ。おそらく米海軍のために迅速な整備をした結果かと思います。
今は概ね80分かかり、回り道なので大半が京急利用です。横須賀中央や汐入からなら横浜まで30分足らず、品川まで1時間を切りますし(ラッシュ時は特急でも1時間10分かかりますが)
20時ちょうど発の門司行きの急行ですが、時刻表では到着は翌日の21時15分となっていますが、概要欄には広島駅が20時55分となっていました。戦後すぐではあれ岡山~広島が8時間はかからなかったのではないかと思います。その欄では門司ではなく下関着が21時15分となっていました。
大阪まで14時間の普通列車!凄い!
博多行き急行27時間も凄い!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
結果としては運転休止区間があるというものですが、そのような行き先の列車が設定されていたことは驚きですね。
横須賀在住だった叔父が46年4月から、三鷹の某医学部まで片道3時間かけて通学していました。
そんなに時間かかるのかなと長年疑問でしたが、本動画で納得できました。ありがとうございます。
戦後日本の成長を支えた一つに鉄道輸送があると思います
沢山の空襲を受けてでもよく復旧させたと感心します少ない車両をやりくりして運行した事に感銘を受けました
鉄道関係者に脱帽です
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
被災した車両や鉄道設備、そして電力不足や石炭不足の中、鉄道が運行されていたことはもちろんですが、時刻表も発行されていたことにも驚きました。
どれもこれもドラマを感じます。
BGMもいいですね。
ぶしつけですが幾つかご参考に
①新幹線開通直前の横浜駅 横須賀線、東海道線の上下線
②房総東、西線電化前の海水浴夏季輸送の千葉駅(総武・成田線含む)
③昭和40年代、品川駅始発の東北方面帰省列車
また、大変ですが臨時も加えたら楽しみ方も倍増するのではないでしょうか?
実際には大幅な遅延や運休も珍しくなかったでしょうが、国鉄が唯一の日本人の足として懸命に走ろうとする姿勢が、この時刻表から伺えます。
特に東海道線や山陽線は全国でも有数の人口密集地帯を走っていただけではなく、復員兵、引揚者、疎開から戻る方々など多くの方々、さらには物資を運ぶ大動脈だったのでいち早く復旧に取りかかった姿が伺えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
遅れながらでも、運休しながらでも、寄せ集めの車両でなんとか運転していた姿に勇気づけられた人もいたでしょうね。
このシリーズでは運賃は一切触れていないが、この時代狂乱物価の時代で、S20/08では13km40銭が22/02では1円、22/10では4円50銭、S24/09ではなんと20円まで値上げしてる。
戦後まもなくでまだありとあらゆるものが不足していた時代にもかかわらず、列車の本数の多さにまず驚きました。一歩でも二歩でも復興を進めたい気持ちの強さが感じられるダイヤだと思います。
普通列車なら大阪までが約14時間、門司までだと約30時間。戦後でそれどころではなかったかもしれませんが、食堂車や寝台車抜きでこの長距離移動は大変だったでしょうね。
23:00が最終・・・終戦直後の痛ましい様子が時刻表からでもよく伝わってきます。
@@HAJIMENINOMAE-pt2ys さま
電力事情が厳しい時代を物語っていますね。
人手が足りないなか線路の補修や信号の点検を夜間に行う必要がありましたね(現代でもそれは変わりませんが)
こんな時代背景の中1時間に2本のパターンダイヤ(末端区間では今と同水準)だった横須賀線の先進性が光る時刻表でした。
横須賀に米軍の海兵隊が常駐し太平洋の戦略の拠点と定められたことが一番の理由ですが、鎌倉や逗子あたりから都心への通勤客も少なからず存在したことも影響しています。
まあスカ線は戦前から電車運転だったし、後に中距離電車ながら国電指定されたくらいなので
今もトカは列番がS(=列車)だけどスカはM(=電車)
@@HMikimoto さま
横須賀線は列車番号の後ろはS、東海道線はMが長く続きましたね。
今は湘南新宿ラインはY、高崎線や宇都宮線から直通するのはEになり、Mをつける列車は本当に少なくなりました。
東京駅の丸の内口の駅舎は前年の空襲でドームと3階が焼失。まだ修復もされず焼失部分がそのままだった時のことですね。
@channelsada3849
木っ端微塵だと爆弾になります。5月25日の空襲で焼夷弾が着弾して焼失です。
ロマン鉄道と呼べる時代に感謝です。
貴重なデータをありがとうございます。
終戦直後の進駐軍統制下の混乱期。
戦後生まれですが色々な情景が脳裏に浮かびます。
食料買い出し、疎開先からの移動、外地からの復員など国民は大変だった時期です。
軍港横須賀を念頭においた進駐軍による進駐軍の為の(観光も含め)列車ダイヤですね。
白帯を車両にまとった上級な進駐軍専用車両、専用列車がありました。
敗戦国日本の約80年前の事ですね。
この年の11月に日本国憲法が公布されました。
2月の鉄道の思い出は在来線のスキー列車、観梅などの臨時ダイヤが旺盛に組まれた時代がありました。
そんな対照的な思考も浮かびます。
二度とこの様な状況に導かれない様に特に今、政治を注意深く監視する必要を感じます。
終戦直後に一泊2日だった東京―博多間、30年後に7時間を切るとは当時の人々は誰も想像しなかったでしょう...
複数の区間需要を一つの列車で満たすために、通し運転しているだけなので、
その「7時間」や現在の「5時間」等にあまり意味はないですけどね。
4時間を超えると航空機のシェアが圧倒的ですから。
20時発の急行門司行きの広島着以降の時刻がおかしいような気がしますが……。
昭和21年2号の時刻表を見ると広島15:21/15:30 宮島口15:55 岩国16:23/16:27 柳井17:18 光17:46 徳山17:56/18;08 三田尻18:41 小郡19:05/19:15 西宇部19:49 厚狭20:05 下関20:55/21:05 門司21:15に読めます。
@channelsada3849 ど=せ客車列車です。
機関車付け替えれば良いんです。 当時だって石炭や運転士の勤務時間から機関車付け替え等はしてたはずですし。
久しぶりです
前日私は東北に行きました
山形、仙台、福島に行きました
東日本大震災で流された旧常磐線の跡を巡りました
リクエスト何ですけど
1925年【大正14年】の常磐線、上野駅のダイヤを話してください
1925年のダイヤの本見てると急行青森行きがあります
終戦後から半年後ですね!GHQ専用列車が登場するかしないかの時期ですね。後横須賀線の普通横須賀線って表示がありますがこれは行先が不明ってことなんですかね?。
@channelsada3849さま
午前中は全て掲載されているのに午後は行き先が記載されていないのも不思議ですね。ごく自然に考えると横須賀行きか久里浜行きでしょうが、国電区間と同等の輸送体系だったので東京駅の始発時刻だけが記載されていたのかもしれませんね。詳細は現地の駅で確認するしかなかったのでしょう。
@channelsada3849さま
戦前から東海道線と横須賀線の時刻表は別立てになっていました。行き先が書かれていなかったのはあくまで「横須賀方面」と言うことで書いたのかもしれませんね。
首都圏の全電車が各駅ごとに記載される時刻表が出来たのは平成になってからです。その時刻表には山手線の全電車の時刻まで記載されており驚いたものです。今は交通新聞社が出しております。
ネットもない時代、遠方から省線、後の国電の各駅の時間を調べるには現地の駅に直接電話するか出たとこ勝負で行くしかなかったものと思います。
当時はほぼすべてが客車での運転。しかもSL。戦争で被災した車両を補修し、かき集めての運転ですよね。
石炭も性能が劣る質の悪いやつだったと聞いたことがありま
@@那須仁-r6gさま
この時代は東海道線は電機牽引の客車、横須賀線は電車が基本でしたね。
ただ、電車は電動機の酷使や戦災でやられたものも多く、電車を電機で牽引することも行われました。
電気も供給不足で厳しかったものとは思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
普通横須賀線表示ですが、資料となる時刻表には朝と夕方から夜間にかけての時間しか掲載されておらず、日中は東京駅発の時刻のみ記載されている状況でした。ただ、そのような状況でも、戦前の時刻表には行き先については何らかの記載や説明がされていたのですが、この時代の時刻表には記載がありませんでした。
もしかすると、戦後の混乱期の影響なのかもしれませんね。
18きっぷで何度も東海道線を走ってきた身としては、大阪まで走り切るロングラン普通列車にロマンを感じざるを得ない!!!!!!
終戦の日も走り続けた鉄道ってやっぱすごいな、、、
リクエストなんですけど、同時期の上野(北方面)ってできますか?
5時6時7時15時(島田止)と25分発が
大阪行きになってて分かりわすい感じ
ですが資材難、多客で定刻運行が大変
だったと思います💦
行先不明の横須賀線列車はおそらく進駐軍関係でしょうね。
東海道線と横須賀線の時刻表は戦前から別立てで書かれていたものと思います。
横須賀線は午前中と夜間は全停車駅を記載したものの、昼間は始発駅の時刻を記載しただけだったのかもしれません。行き先が書かれていなかったのはあくまで「横須賀方面」としただけかと思います(今ならミスプリでクレームの対象になりそうですが)
連合軍との関係とは異なるものかもしれません。
きれいなパターンダイヤとなっているうえに列車番号の振り方も電車ダイヤのそれなので、現在の旧国電(例えば山手線や京阪神地区の東海道と山陽の緩行線)の「初電と終電以外は省略して表記」と一緒のようなものだったのでは?
時刻表のスペースを省略したいためにフル表記をしないだけで進駐軍とは全く無関係です
昼間の時間帯について省電路線では戦前から時刻表上で途中駅発着時間と列車番号省略はデフォ
パターン化してるので時間は推定可能、列車番号も基本頭の3・4桁目はその時間帯、2ケタが上り下りで1セット(01と00、03と02など)
1501なら15時台の01-00運用とわかる
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
大変深いご推察ありがとうございます。
しかしながら、TSUYOS185様やsueipas様の仰る通りで、
単に掲載をしていなかっただけのことでした。
横須賀線行きと書かれてる列車が進駐軍関係ってことは、一般の乗客が利用できたんでしょうか。ここに載ってるならだいじょうぶか。
終戦直後からサンフランシスコ平和条約の締結までは横須賀線用の2等車が接収され、連合軍専用車両として運転されていたこともありました。それには一般の旅客用の3等車が連結されていたものと思います。
長距離列車がめちゃめちゃ多い...
「日本の鉄道は俺の鉄道だ!!」と言い放ったCTS(民事運輸局)のシャグノン中佐。本国ではイリノイ・セントラル鉄道の主任レベルの人が日本国内の鉄道の絶対的権限を持っていた。無茶苦茶な人で、最後は職権濫用で解任。日本側から誰も見送られる事なく寂しく離日したそう。
米軍も人材が必ずしも豊富では無かったんすかね、この時代ならまだまだ鉄道強いはずだが
@@tyouicbmさん この方の主な実績
大:下山事件(何らかしらで関わっている事は明白)
中:特別二等車(国鉄では一等車で設計していたが、定員44名の一等車なんてあるか!!二等にしろ!!と厳命)
小:つばめガール(候補者の採用試験に参加したり制服デザインに色々と注文をつけたりとご執心だった)
2240発の大阪行き普通149列車は、後の大垣夜行〜ながらの前身でしょうか?
おそらくそのはずです。その後の時刻表を見てみると、
東海道新幹線開業直前の1964年9月では東京23:30→大阪10:47の客レ普通145列車、
ゴーサントオで有名な1978年10月では東京23:28→大垣6:59の普通347M列車、
そして民営化して間もない1988年3月では東京23:25→大垣6:57の普通375M列車と移り変わっていっています。
ヨンサントオの改正で大垣止まりに短縮されて、大垣夜行になりました。
GHQ…。
マッカーサーですね。
支配下となると、中々発展していかないイメージもありますが、そういう歴史があったからこそ、今の日本の鉄道があるんでしょうね。
GHQを評価するようなコメントはお控えください。戦勝国が敗戦国の憲法を創る事、新聞・雑誌・放送の検閲は勿論、相手国の歴史を消す事、書物の発禁、禁書も国際法上許されません。相手国の文化を踏みにじる行為は、絶対に許すことの出来ない蛮行です。
急行の本数の多さに意地を感じる
それでも国内では石炭不足が深刻になり、1947年の初頭には戦時中すら動いていた急行が全て廃止されました。いっときではあれ極限状態に陥りました。
横須賀線と東海道本線列車が一緒で運転時代 横須賀方面の列車多そう。
普通 門司
すごいですね。。
今回は終戦間もない状況ですが、戦前含めて長距離の移動の際に優等列車がとても少なく普通列車が多いのは何故なんでしょうか?
今の時代に生きているから違和感を感じるのは少し理解できますが、都市間の小さな駅にも停まっていたのかと思うと、特急はともかく快速列車等も無かったのか不思議です。
長くなってしまいましたが、解説して下さる方がいましたらよろしくお願い致します。
動画の趣旨とずれてしまって申し訳ありません。
戦時中は特急や急行は軍関係やビジネスの方が優先されていたのでしょう。一般の庶民は普通列車で長時間というのが当たり前でした。
さらには普通列車には荷物車や郵便車も連結。都心から地方に新聞を運ぶこと、小包や赤紙の召集令状を運ぶことにも鉄道が使われていました。さらには貨物列車も今とは比較にならないほど多数運転。
東海道線や山陽線クラスともなると限られた線路容量のなかでギリギリの運転をされていたことと思います。
当時は戦前より面々と続いてきた身分格差が今より厳格だった時代です。
また、料金の問題もあり、一般人は普通列車移動が「ごく当たり前」だった時代です。
なお、大都市間は今のように京浜線(この当時は京浜東北線ではない)・東海道緩行線とかはありました。
今のように快速(無料)はほぼありません。ただし、夜行普通列車によっては夜間帯に小駅を通過する列車は全国各地に存在していました。
例えば大阪行149列車(東京22:40)は24:00着の平塚を超えると小田原、沼津、静岡のみに停車し、4:02着の掛川からは各駅に停車していました。
もっと通過していた鳥羽行241列車は小田原を超えると熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、岡崎しか停車せず、5:07着の大府まで262.6kmを快速運転しここから各駅に停車していました。
このため先行の大阪行急行103列車と東京名古屋では15分しか所要時間に差がありませんでした。
山陽線区間はモット顕著で糸崎~西宇部間は深夜帯は今で言う快速運転を普通列車もしており、快速運転が長い列車(京都発下関行227列車)だと河内23:41=西宇部5:38間207.7Kmを主要駅のみ停車で結んでいました。
東北本線上野行104列車なんて郡山23:35~上野5:00間221.6km、常磐線仙台行205列車は松戸22:17~原ノ町4:19間271.2kmが快速運転です。
今で言う「乗り特列車」は全国各地に存在していました。
道路事情も全然違います。
舗装されている道はごく僅か。自動車で長距離は出来ません。
長距離移動は鉄道しか手段が無かったのです。おまけに運賃は等級ごとに加算されていくので一般の人が乗れるのは三等だけです。二等に乗るなら二等料金と二等運賃を払わないといけないので。今とは全然違います。
速達性のある急行は急行料金も払わないといけないので今みたいに気軽に優等列車に乗れる時代ではありません。
目的地まで一日以上かかろうが移動手段は鉄道でなおかつ普通列車しかない時代です。
またこの時代は外地からの引き揚げ、戦地からの復員もあったので専用の普通列車もありました。
@@radiotanpa 二等に乗るなら二等料金と二等運賃を払わないといけないので。今とは全然違います。
間違い。 2等車に乗るのは2等運賃(大体三等の3倍)だけでよい。 急行料金等も1~3等で料金が分かれているが、これは急行や特急に乗らなければかからない。 当時の東海道本線等は普通列車でも2等車が連結されている例がとても多い
午後便の御殿場行きや山北行きは、JR化後10年くらい前までは走っていたので、歴史が長いなと思いました。
門司行きが珍しい 米行きも 普通・博多行き 御殿場線の御殿場行き 御殿場経由沼津行き 山北行き 横須賀線で行き先表示がない逗子行きかな? 鳥羽行き
沼津までの3時間前後はまぁまぁそんなものかな、という感じですが、門司までの30時間超え、大阪まで12時間ってのは西の方の復旧が遅れてるってことですかね
それでも走ってるだけまし、と車内に潜り込んでいったのでしょう、なにやら胸が熱くなりますなぁ
石炭不足のために速度調整をしていたと思うんですが。まあ線路も車両も「部品供給困難」の為の整備不足のため最高速度も出せなかったと思いますが。
所要時間の比、いまと当時で大して変わらないですよ。
いま、普通列車で東京から沼津まで約2時間なので、要するに約1.5倍です。1.5で割ると
大阪まで8時間、門司まで20時間
普通列車ならば大体そんなところでしょ、いまでも。
なるほど、1.5倍の法則ですか~そう考えると納得です
横須賀線。
現在より所要時間が短い。品鶴線を通らない。逗子で付属編成の切り離しが無い為か。
戦後のダイヤを目にするのは初めてです。
鳥羽行の列車があるとは、驚いた。
この時代の時刻表はJTBが2回ほど復刻版を出しましたから比較的目にする機会は多いです
鳥羽行列車があったのは、当時の近鉄名古屋線(旧伊勢電鐵→旧関西急行電鐵)が、狭軌(1067mm)だった為に伊勢方面への直通が出来ず(1959年伊勢湾台風復旧と並行して1435mmに改軌)名古屋から関西線→参宮線というルートがメインだったそうです。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 さま
戦時中は物見遊山の旅行はきびしかったものの、お伊勢参りは戦争が激しさを増すまで奨励されていました。この列車が残ったのもお伊勢参りをされる方が多かったと言うことでしょう。
後に急行になりますが、新幹線が出来てからは新幹線+近鉄特急がメインになりましたね。
@@TSUYOS185 様へ。
お返事を頂きまして、有難う御座います。所謂、戦勝祈願でしょうか?
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎さん
戦前の修学旅行には、伊勢神宮~橿原神宮~桃山御陵というルートがあった様です。
同じ時間に同じ列車が複数走っている
戦時中より本数増えてる。
門司まで1日かかる
23:00で終電?
東海道?
山手や京浜東北込み?
東海道線と横須賀線のみと思います。
当時は横須賀線の電車も東京大船間は東海道線と同じ線路を走っていました。
リクエストを送ります
92年の特急「ハイパーかもめ4号」と新幹線「ひかり8号」の時刻をアップして下さい
屈辱的な敗戦から半年・・・。
近郊の横須賀&久里浜までもともかく、遠路大阪&急行で博多までダイヤを組んだ
当時の鉄道省職員一同に、感服の天晴だ\(^o^)/
貴殿らの奮闘があったから、帝国の戦後は無難に引き継がれた
無難どころか、その「帝国」は滅んだぞ